【三瀬税理士のやわらかい死生観】1~あの世とこの世を結ぶ時の流れ~

この世は二つの時間が流れているのかもしれない。しかも2種類。そんな錯覚を相続の現場で実感します。

 

ある家族の分割協議の場に立会った時のことです。相続人は配偶者(奥さん)、長女と次女の3名です。お会いして、奥さんは「何も財産はいりません。子供たちの好きなようにしてください。」と私と娘さんに宣言してきました。

娘さん2人にとっては、少し、困惑した様子で、今後の老後の生活や相続税の軽減を考えれば、いくらかお母さんに財産を相続して欲しいと願っていました。

奥さんの胸のうちは、まだ、“私の主人が亡くなっていない”ということです。主人は別の体を借りて、どこかに生きています。だから、死んでもいない人の財産を相続することはありえません。それに、私自身は今まで、つらいこともありましたが、すべて“千秋楽”に向けてのシナリオだと考えれば、特に財産をもつことはありません。私は私の最後の時に向かって、粛々と準備をするだけです、と。

 

なるほど。

千秋楽ってこんな場面においても使うのか。ちなみに千秋楽の意味は次の通りです。

千秋楽とは(「千穐楽」「千穐樂」「千龝樂」とも書く)

  1. 芝居・相撲などの興行の最後の日。
  2. 物事の最後。終わり。

この「千秋楽」を考える上で、ふと、冒頭の時間の流れを意識してみました。

 

原因と結果の矢印の時間軸。それは生まれてから死ぬまでの物理的・物質的な時間の流れ。それとは別の被因果律の時間軸。それは「縁」のネットワークのような気がします。

生きていく過程で成長し、強く結びつき、丸みの時間を構成する感覚です。奥さんの時間軸は、過去のさまざまな出会いや偶然を意識することで、ご自身の「千秋楽」の境地に達したのではないかと。それは、生まれてきた使命感として生きる時間である気がします。そこに、生から死への時間的観念は薄れています。

 

さまざま関係がシンクロしたシンクロニシティ―の不思議な世界を相続によって実感する。

時間の流れは直進的な因果の視点だけでなく、よりさまざまな「縁」と「偶然」を誘発する曲線的な時間を体内に宿します。その感覚を研ぎ澄ますことで、人はやさしくなれるような気がします。